保坂和志 "アウトブリード"

保坂和志については、だいぶん前、小説 "プレーンソング" (isbn:4122036445) を読んで、弛緩した話を弛緩した文体で書かれても……というような感想をもった記憶があり、エッセイ集であるこの "アウトブリード" (isbn:4309406939) も最初食指が動かなかったのだけど、ふとページを開き、一番はじめにある "『愛』" という 2 ページに満たない短いエッセイの 1 行目を見て、残りも読んでみようかと思ったのだった。

友人 K は言った。あなたはいま、さしあたり形になる目的を持ってしまったために、あなた自身が以前よく口にしていた『愛』を忘れてしまったんじゃないのか?

もっとも、このエッセイについては一篇の詩として読んだ感じで、言葉の力みたいなものは感じだけど、なんだかよくわからないまま。
とにかくそこから順に読み進めて (エッセイ集なのだから順に読む必要はないのだけど)、つぎにフックになったのは、またしても 2 ページに満たない、小説について語る短いエッセイの一節だった。

だからぼくの読む気が持続するのは、「よく知っていない何か」が書かれているときだけなのだが、「よく知っていない何か」はじつは単純におもしろいと感じることができない。不馴れなものは感じ方がよくわからないものなのだ。しかし、それに戸惑いながらそれでも最後の一行にぼくを導く何かが感じられるもの、ぼくにとって小説とはそういうもので、ぼくはそういう小説しか読み通さない。

ここを読んで考えたのは、実はポップ・ミュージックのことだった。マンチェスターグランジ、ミクスチャーといくつものムーヴメントが勃興し、新しい音楽があふれた '80 年代の終わりから '90 年代のはじめ、ハッピー・マンデーズダイナソー Jr.、レッド・ホット・チリ・ペッパーズなどに夢中になりながら、自分も似たようなことを考えていた。
たしか "EV. Cafe" (isbn:4061843591) あたりで坂本龍一が "耳はコンテクストに依存する器官だ" というようなことをいっていたのだけど (探すのがめんどうなので確認しない)、それはまったく実感で、耳慣れない音をいきなり心地好いと感じることは基本的にない。まさに 不馴れなものは感じ方がよくわからない。しかし、"なんだこれは。よくわからないな" と思ってしばらく放っておきながら、やっぱり気になって聴き返したりしているうちに耳が変わっていって、気がつくとそればかりを繰り返し聴いている──そんな経験が何度もある。逆に、はじめて聴いたときから気に入ったのが、すぐつまらなくなってしまうことも多い。自分は前者の経験に取りつかれ、当初 "なんだこれは" と思わせながらもやがては中毒させてしまう、そんな耳慣れない音を求めつづけていくことになったのだった。
いわゆる "良い曲" などつまらなかった。それは "こういうのってよく知ってるけど、これはできが良い" というようなものであるにすぎず、想像もしなかった音が少し時間をおいて与えてくれる快感にくらべれば、ゴミ同然だった。ちなみに、これまでになかった音を出すという意味において進化する音楽としてのロック・ミュージックが (ふたたび) 失速したときには、ヒップ・ホップを聴きはじめ、ニュー・スクールからネクスト・スクールへと追いかけたりもした。
それはともかく、保坂がそれに似た感覚で小説を読むということに少し驚き、同時に納得したのだった。
つづいて他のエッセイもと読み進むと、保坂は同じことを何度も繰り返し書いていることに気づく。たとえば、日本語に翻訳されるあいだに現実 (引用者註: サラエボの現実) に追い越されてしまった という小説について語るエッセイには、つぎのような一節がある。

NHK 衛星第一で毎日映る世界のニュース映像に "いわゆる文学的な感受性" を被せれば、この種の作品はかなり容易に生まれる──と、読者は考えるだろう。実際に自分に書けるかどうかの問題ではない。読者には書いて証明する必要などまったくない。ただ、そう思えてしまったらその想像力は古びているということなのだ。(強調は引用者)

これはそのまま 「よく知っていない何か」が書かれている かどうかということだ。
上の引用からだと誤解されそうだけど、自分の理解では、保坂がいっているのはニュース映像に流れない、現実に起こりえない絵空事を想像して書けというようなことではなく、いまだ言葉にされたことのない現実を書けというようなことだ。不確定性原理で有名なハイゼンベルクについてふれるエッセイには、以下のような一節がある。

ハイゼンベルクは特別な科学者だった。原子の中で原子核のまわりを回っている (?) 電子の軌道に関して、彼は太陽のまわりを回る惑星のような視覚的イメージによりかかることを排した。出来合いの知っているものをモデルとして使って別のことを説明しようとせずに、それ自体を記述した。

丹生谷貴志の "ドゥルーズ・映画・フーコー" (isbn:4791754638) と "死体は窓から投げ捨てよ" (isbn:4309241816) についての書評では、しかし人は 出来合いの知っているものをモデルとして使って しまうことについて書いている。

彼 (引用者註: 丹生谷貴志) が問題にしていることは、ロールシャッハ・テストで見せられる黒い広がりが「蝶」に見えたり「恥骨」に見えたりすることではなく、ただの黒い広がりでしかないものが人には必ず「何かに見えてしまう」ことだ。

これは保坂自身のことでもある。保坂は、"おもしろい" ということに関して "ただの黒い広がり" の前に立ち止まろうとしたりする。

「おもしろい」とはつねに「なんとなくおもしろい」ということでしかなくて、はっきり「××が□□のところがおもしろい」と言えるのは、じつはもう本当のおもしろさではない。「おもしろい」というのは、それ以前の、気持ちが揺れ、いつもと別の方向に気持ちがひかれかけている状態のことなんだと思う。

もちろん、これは小説につながるものだ。先に引用した "よく知っていない何か" は、実はつづく文章があって、それは 「よく知っていない何か」は、いつも特異なディスクールによって語られている (p. 44) というものなのだけど、これは以下の、保坂による小説の定義と呼応する。

小説というのは、その小説に先行する既成の尺度で測ることのできないもので、その小説の評価の尺度はその小説自身が書き出しの一行目から作り出していく。

保坂はこのような小説を書こうとしているらしい。
まあ、他にもいろいろあるのだけど、長くなったししんどくなってきたのでこのへんにしておく。しかし、なんだかあやういところも多々ありながら、なかなかおもしろいエッセイ集だった。機会があれば、小説も読んでみていい。
そういえば、これは友人が郵便で送ってくれた本なのだった。返したほうがいいのかなと思いつつ、気がつくとボールペンでぐいぐいと線を引いていたので、そんときは買って返すことにする。
最後に、単行本版 "猫に時間の流れる" (isbn:4103982012) の帯に大島弓子がよせたという文章が紹介されていて、それがすごくすてきだったので、またひとりの猫好きとしてここに孫引きしておく。

なんでもない日常で 猫がホトホト歩いていって ふと立ち止まって こちらを振り向く時
永遠に縮まらない猫との距離を知ってしまう
撫でても 撫でても さわっても さわっても その距離はあるのだ
猫に時間の流れる を読んでいると その厳粛さがずーっと持続してとてもせつない

アウトブリード (河出文庫―文芸COLLECTION)

アウトブリード (河出文庫―文芸COLLECTION)