外部記憶

押井守が監督したアニメ映画 "イノセンス" (asin:B0000APYMZ) の海外版では、日本版にはない前文が冒頭 (リラダン "未来のイヴ" の引用の前、製作クレジットの前) に挿入されている。以下はその前半。

In a future time, when most human thought has been accelerated by artificial intelligence and external memory can be shared on a universal matrix, Batou, an agent of the elite Section 9 Security Force and a being so artificially modified as to be essentially cyborg, is assigned, along with his mostly human partner, Togusa, to investigate a series of gruesome murders.

てきとうに訳してみるとこんな感じ。

人々の多くがその思考を人工知能によって加速されていて、外部記憶がユニヴァーサル・マトリックスにおいて共有可能な未来、公安 9 課のエージェントであり、芯からのサイボーグになるまでの人工的な改造を施された存在であるバトーは、ほぼ生身のパートナーであるトグサとともに、陰惨な連続殺人事件の調査に就いている。

この舞台説明にあるように、主人公であるバトー、トグサをはじめとする登場人物たちは、"イノセンス" の全編を通じて "外部記憶" にアクセスしつつ行動している。過去の文献からの自在な引用が会話に織りまぜたりするのがその特徴的な例だ (参考: "http://freett.com/iu/innocence/quote.html")。中盤には、旧約聖書の一節を口にしたトグサに対し、バトーがこんなことをいったりするシーンもある。

とっさにそんな言葉を検索するようじゃ、おまえの外部記憶装置の表現型も、ちっと偏向してるな。

こういうのはなかなか楽しい。"イノセンス" は、その前作 "Ghost in the Shell 攻殻機動隊" (asin:B000197J1I) と同じく、テーマらしきものを本気で追ってもおもしろいものはでてこないけど、いまや死語になってひさしいサイバーパンクな感じだったりするこのような細部はおもしろい──と、そう思ってたのだけど、"美崎薫さんは「2009年に来る3年後の未来は日々体験ずみ」なんだって - bookscanner記" に引用されてる以下の文章を読んで、いや、むしろ "イノセンス" は (この点では) 踏みこみがたりなかったのかもしれないと思ったのだった。

自分に関するあらゆる情報が瞬時に手にはいるようになったとき、記憶はゆらぐだろうし、揺らがなかったらつまらない。ゆらいだときに、新しい感覚を抱いた人間が生まれるだろうと考えたのだ。

新しい感覚を抱いた人間が生まれる というのは、おおいにありそうなことだ。たとえば、"善悪の彼岸" (isbn:4003363957) の第 4 章 "箴言と間奏" には、ニーチェのこんな言葉がある。

「それは私がしたことだ」と私の記憶は言う。「それを私がしたはずがない」──と私の矜持は言い、しかも頑として譲らない。結局──記憶が譲歩する。

くわしくないけれど、フロイトにはじまる精神分析はこの記憶の譲歩という事態を裏書きしたはずだ。"イノセンス" において、疑似体験の迷路という罠に気づいたきっかけを問われたバトーが、そのバカでかい外部記憶装置のセーヴ・データから、ホールの記憶を検索してみな とキムにいうところからもわかるように、外部記憶は、それにアクセスするまでは記憶のまさに外部にある。しかし、アクセスするコストがこの作品の舞台のレヴェルにまで下がってしまえば、それはやはり記憶の一部といっていいものになっているんじゃないか。記憶が譲歩を許されなくなったとき、人はどう変わるのか、これはなかなかにサイバーパンク的で魅力的なテーマだ。

イノセンス スタンダード版 [DVD]

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