Shel Silverstein "The Giving Tree" (3)

The Giving Tree (Rise and Shine)

The Giving Tree (Rise and Shine)

一昨日のつづき。気になるのでもう一度借りてきた。
やっぱり、Amazon.co.jp にある Karin Snelson のレヴューに対する違和感は消えない。

While the message of this book is unclear (Take and take and take? Give and give and give? Complete self-sacrifice is good? Complete self-sacrifice is infinitely sad?), Silverstein has perhaps deliberately left the book open to interpretation.

the message of this book is unclear というのはそのとおりなのだけど、Silverstein has perhaps deliberately left the book open to interpretation というのはちょっとちがうんじゃないか。むしろ、interpretation は拒絶されているというべきではないのか。
Snelson は、the boy がついに木を切り倒すのを He unthinkingly does it と表現しているけど、unthinkingly というのは Snelson の感想にすぎず、実際の作品にはそれを匂わす言葉すら挿入されていない。Silverstein は徹頭徹尾、the boy を責めることもなく、the tree を讃えることも、あるいは逆にさげすんだりあわれんだりすることもなく、ただふたり (ひとりと一本) の間のできごとをたんたんと書いている。Silverstein は、自身の解釈を一切排除している。
"The Giving Tree" は、ハッピー・エンドなのかアンハッピー・エンドなのかすら不分明だ。最後、the boy が the tree に、ひとこと感謝の言葉、あるいは謝罪の言葉をかけていれば、"The Giving Tree" は与えつづけたものがついに報われるというポジティヴなメッセージを、いいかえるなら教訓を発信しただろう。あるいは、最後の一文 And the tree was happy がなければ、"The Giving Tree" は悲劇として収束し、これまたなにか教訓を発信したにちがいない。しかし、Silverstein は deliberately に双方を避け、この極限的に非対称な関係を、落ち着く先を定めないことに集中して描いている。つまり、Silverstein は、この作品が意味に支配されることを拒絶している。
"The Giving Tree" はたんに現実なのだ。因果応報という言葉があるが、それは人が現実を意味づけようとする試みにすぎず、実際に世界を見渡せばそれが破綻しているのは明らかだ。因果応報などという言葉の存在自体が、世界がそのようでないことを表しているのだということもできる。現実は意味による支配を拒絶している。Silverstein は、意味による支配を同様に拒絶することで、この短い作品に現実を写し取ったのだといっていい。読むべきはなんらかの意味ではなく、その支配に対する拒絶だろう。
Google で Shel Silverstein を検索する (彼の詩を 5 つばかり載せたページ (リンク切れだがそのまま残す) が見つかる。中で "AntEater" という詩と "Ticklish Tom" という詩は、読んで呆然とするものだ。"AntEater" は短いので、ここに全文を引用してみる。

"A genuine anteater," The pet man told my dad. Turned out, it was an aunt eater, And now my uncle's mad!

ペット・ショップの男がアリクイだといったその動物が食べるのは、実はアリ (ant) ではなく叔母 (aunt) で、奥さんを食べられちゃった叔父はカンカンさ、という詩だ。この作品世界は底が抜けている。"Ticklish Tom" も、くすぐったがりの Tom がいろんな人々にくすぐられて方々を転げまわり、やがて線路の上で列車にひかれて死んじゃって、もうくすぐったがりじゃない、という詩で、同じく底が抜けている。意味ではなく韻による支配があるだけだといえばそれまでだけど (実際 "Tryin' On Clothes" という詩は単純にさわやかなものだと感じられる)、この底が抜けているという感じはなんだか現実に似ていると思い、"The Giving Tree" にいくぶん共通するものを読み取ってしまうのは不適切なことだろうか。
残酷だとか、やるせないとか、哀しいとかいう "The Giving Tree" に対する自分の感想は、そのヘヴィネスを露出させた現実を目の当りにしたときに感じるものとまったく同じものだ。この小さな作品には現実が封じこめられている。現実が open to interpretation だという意味では Snelson のいうとおりなのだけど、特権的な interpretation を認めないというのはその拒絶と同義であり、現実と等価なほどにそれを徹底した Silverstein の強い意志を読むなら、後者の表現を採るべきではないかと思う。
でも、Amazon.co.jp のカスタマー・レヴューは、"The Giving Tree" を無償の愛に対する讃歌と読む人々であふれてたり (^^; Google で "The Giving Tree" を検索しても (孤児に対するケアを目的としているらしき組織のサイトが見つかったりするし、世界的にもそういう読みかたが一般的であるぽい……。