キク ("コインロッカー・ベイビーズ") と柘植 ("パトレイバー 2") のちがい

コインロッカー・ベイビーズ(上) (講談社文庫)

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コインロッカー・ベイビーズ(下) (講談社文庫)

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機動警察パトレイバー2 the Movie [DVD]

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"コインロッカー・ベイビーズ" の感想を書いてて、ふと頭に浮かんだことがある。コインロッカーに閉じ込められているとしてそれを破壊しようとするキクの感覚は、戦争という現実から隔てられた日本 (東京だっけ?) は幻だとして、そこを戦争状態に導く柘植 ("機動警察パトレイバー 2 the Movie") の思想に通じるところがあるんじゃないか。しかし、これはどうにも納得しがたい考えだった。
PKO の派遣先で、襲撃にあったにも関わらず司令部からの発砲許可がおりず、そのために部下を死なせてしまった自衛官の柘植は、それを、戦場には現実があったが後方 (司令部) にはそれがなかったからだと考え、さらにその "後方" というのは日本全体がそうなのだという考えにいたる。柘植は帰国後行方をくらまし、やがて政治的要求のない奇妙なクーデターを起こす。立ち向かった後藤は、それをクーデターの形をとったテロだと喝破した。すなわち、それは日本を "戦場" 化することを目的としたものだった。
最初はキクと柘植の類似点に目が行ったのだけど、やがてそのちがいに気がついた。柘植の行動は、そこに復讐といった意味合いが同時に存在しようとも、"現実" がない日本にそれをもたらそうという啓蒙的なものだ。それに対して、キクの行動にはそんなものは見当たらない。
啓蒙という行為は自分が所属する共同体に対して行われるものだ。つまり柘植の行為は共同体的だ。それに対し、キクには所属する共同体が見当たらない。いや、当初はあった。キクはハシを助けなければならないと考えていた。つまり、キクとハシはふたりでミクロな共同体を形成していた (とキクは考えていた)。しかし、それはまちがいだとアネモネはキクにいった。

「なあ、俺はあいつと一緒にずっと育ったんだよ、いいやつだったんだ、その、あいつが初めてだったんだ、アネモネわかるか初めてだったんだ、俺を必要とした初めての人間だったんだ」
アネモネはテレビの前を動かないキクにゆっくりと近づき後から胸に手を回した。
「キク、あんた間違ってるわよ、誰かを必要とする人間なんていないもの、あんたのいうことは違うわ、あのオカマとあんたは何の関係もないのよ、あんたの言うことを聞いてると、飼っていた鳩に逃げられたガキみたいで気持ち悪いったらありゃしない。大事なのは、自分が何をしたいのか捜すことだと思うわ」

アネモネの言葉に動かされたわけではないけど、キクはやがてハシに対する責任といったものを感じなくなる。柘植の行動には責任といったものが感じられるけど、以降のキクの行動は無責任だ。

誰もが胸を切り開き新しい風を受けて自分の心臓の音を響かせたいと願っている、渋滞する高速道路をフルスロットルですり抜け疾走するバイクライダーのように生きたいのだ、俺は跳び続ける、ハシは歌い続けるだろう

ここでいう "誰も" というのは、柘植が啓蒙の対象とした日本という共同体のようなものではない。それはたんに、共鳴する単独者の群れのようなものだろう。
柄谷行人の言葉を使って、柘植は道徳的だがキクは倫理的なのだといったら、それはちょっとおおげさかな。