村上龍 "希望の国のエクソダス"
- 作者: 村上龍
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2002/05/10
- メディア: 文庫
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今となっては過去になった (はじめて読んだときすでにそうだったけど) 近未来小説。おもしろかった。でも、外部に対する緊張を失い死にゆく共同体から軽やかに離脱していく人々 (子どもたち) の物語を痛快に読んでしまったというのは、自分を棚にあげた行為として反省すべきだろうか。
今、ふと思い出したことがある。自分は、進化する表現としてのロック・ミュージックの蘇生を '80s 末期から '90s 初期に目の当たりにし、それに興奮し溺れた。当時活躍したミュージシャンたちには、少しこの子どもたちに似たところがあったと思う。
たとえば、当時 "タイムズ・アップ" (asin:B000064PPT) というアルバムをよく聴いたリヴィング・カラー。彼らは、ハード・ロック / ヘヴィ・メタルをベースとしつつも、同時に旺盛な食欲でさまざまなジャンルの音楽を食い散らかし、凝り固まったスタイルの中でちまちまと優劣を競い合っていた HR/HM "村" から軽やかに逃走した。"村" のルールを鮮やかに無視して疾走するさまは "希望の国のエクソダス" の子どもたちに似てるところがあって、自分はこの小説をそうした越境者の物語として読んでしまったというところがある。狂言回しである関口は、子どもたちについて
抑制のようなものがない(p. 313) というけど、リヴィング・カラーもまた抑制というものを感じとれない存在だった。表現においては、それはしばしばイノヴェーションを生み出す。
龍が子どもたちを全面的に肯定するような感じで描かなかったのは、たんに、現代日本を舞台として主役を中学生に設定したとき、彼らを欲望の希薄な存在としなければ説得力がないと感じ、そのように描いたからじゃないかと思う。たとえば "五分後の世界" のような荒唐無稽な舞台設定だったら、物語の主役にちがうタイプを設定してたんじゃないか。"希望の国のエクソダス" の子どもたちは、龍がなりたいと思ってきたような存在ではない。
今回の感想はとりあえず、こんないいかげんなところで。